第一の未来は、パンの香りとともに始まった。
それは、朝の光よりも柔らかく、潮風よりも懐かしい匂いだった。
そして私は、その匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、まだ見ぬ誰かの笑顔を予感していた。
未来は、唐突に見える。
警告も予兆もない。
ただ、ふとした瞬間に視界が揺れ、目の前の現実に重なるように、少し先の光景が差し込んでくる。
それが私にとっての“七つの未来”だった。
七つの未来は、私が生まれたときからそこにあったわけではない。
ある日突然、頭の中に映るようになったのだ。
どの未来も、きらめく一瞬ばかりで、始まりも終わりも映らない。
まるで映画のワンシーンだけを切り取って見せられているようだった。
第一の未来は――パン屋だった。
まだ一度も訪れたことのないパン屋の店先で、私は白い粉にまみれた手を持つ人物と笑い合っていた。
未来の中で、私の手には紙袋があり、その中から焼きたてのクロワッサンの匂いが立ち上っていた。
周囲には、まだ朝の匂いが漂っている。
パン屋の入り口には赤い木の看板があり、その文字は外国語のようで読めなかった。
未来はそこで途切れた。
私は、それを確かめたくて、旅に出た。
行き先は分からない。
ただ、港町を目指せばいい気がした。
未来に映っていた朝の光は、どうやら海の近くの光だったからだ。
私がその町に着いたのは、早朝の6時過ぎだった。
夜行列車を降りると、潮の匂いが鼻をくすぐった。
未来で嗅いだパンの香りとは違うが、胸の奥を少し温めてくれる匂いだった。
港町の朝は早い。
漁船が帰ってくる音、氷を割る音、遠くでカモメの鳴く声が響く。
そして、石畳の道を進むと、少しずつパンを焼く香りが混じり始めた。
私は、その匂いを追いかけるように歩いた。
やがて、未来で見た赤い木の看板が、霧の向こうに現れた。
看板には「Boulangerie du Mer」と書かれていた。
意味は分からないが、未来で見た文字と同じだった。
私は胸の鼓動が速くなるのを感じた。
まるで物語のページが、現実の中で一枚めくられたような感覚だった。
店のドアを押すと、鈴の音とともに、甘く香ばしい空気が溢れ出してきた。
中には、小さなカウンターと、奥で忙しそうに動く人物の姿があった。
白いエプロン、粉で白くなった指先、少し長めの髪を後ろで束ねた青年。
未来で見たのは、この人だ。
ただ、そのときは笑っていたのに、今は真剣な表情をしていた。
「いらっしゃいませ。すみません、クロワッサンはあと5分で焼き上がります。」
声は低めだが、どこか柔らかさがある。
私は未来を思い出しながら、無意識に頷いた。
「大丈夫です、待ちます。」
そう言うと、青年は一瞬だけ笑った。
未来で見た笑顔と、ほんの少し重なった。
カウンターの横に、小さな丸いテーブルがあり、そこに腰掛けて待つことにした。
棚にはバゲットやブリオッシュが並び、バターと小麦の香りが混ざって店を満たしている。
窓から差し込む光は、港町特有の淡い金色で、外を通る人の影がゆらりと揺れた。
5分が過ぎる頃、奥からパリパリと音を立てるクロワッサンがトレイごと運ばれてきた。
「お待たせしました。」
青年が差し出した紙袋から、未来と同じ香りが溢れた。
私は袋を受け取りながら、つい口をついて出た。
「…この香り、どこか懐かしいです。」
青年は少し首を傾げた後、笑って言った。
「うちのクロワッサンは、バターを3種類混ぜてるんです。ひとつは、海の向こうから来たやつ。だからかな、懐かしいって言う人、たまにいます。」
ここから、主人公はそのパン屋に通いながら、未来で見た場面と少しずつ一致していく小さな出来事を積み重ねていきます。
また、この第一章の後半では「1枚目の記憶カード」がパン屋の片隅で偶然見つかるシーンを挟み、物語全体の伏線を張ります。