クロワッサンを頬張ると、外はパリパリ、中はしっとり。
噛むたびに溶け出すバターの香りが口いっぱいに広がり、まるで遠い海辺を散歩しているような錯覚に陥った。
私はひと口ごとに、未来で見た笑顔を少しずつ思い出していった。
――この瞬間だ、と心のどこかが囁いていた。
「……どうですか?」
カウンター越しに青年が問いかける。
私は口の中の幸福を逃したくなくて、ゆっくりと噛み、飲み込み、そして答えた。
「まるで、朝の海の光を食べてるみたいです。」
青年は驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「そんなこと言われたの、初めてです。」
それは、未来で見た笑顔と同じだった。
心の奥で“未来が確定していく音”がしたような気がした。
クロワッサンを食べ終える頃、私はふと店の奥に目を向けた。
奥の棚の隅、埃をかぶった木箱があり、その上に茶色い封筒が無造作に置かれている。
視線に気づいた青年が言った。
「あぁ、それ、ずっと前にこの店を手伝ってた人が置いてったものなんですよ。中、見たことないんですけど。」
私は何気なく「見てもいいですか?」と尋ねた。
青年は肩をすくめ、「どうぞ」と言って奥の棚から封筒を取ってくれた。
封筒は古く、角が少し破れていた。
中から出てきたのは、一枚のカードだった。
厚みのある紙に、手書きで描かれた風景――金色の海と、その向こうに小さな船。
裏には短い文字が書かれていた。
「君がこれを見る頃、きっと朝はやってくる」
私は息をのんだ。
これは、私が持っている“記憶カード”と同じ形式だった。
つまり――これが、1枚目の記憶カードだ。
青年は私の表情を不思議そうに見つめた。
「知ってるものなんですか?」
「……はい。でも、どうしてここにあるのかは分かりません。」
言葉を選びながら答えると、青年は笑って言った。
「面白いですね。なんだか、続きがある話みたいだ。」
私はカードを握りしめながら、この店にまた来ようと決めた。
未来はひとつの場面だけしか見せてくれないけれど、その先を確かめるのは私の役目だ。
そして、クロワッサンの香りと一緒に、この店の記憶を少しずつ重ねていきたいと思った。
外に出ると、港の方から潮風が吹いてきた。
カードの描かれた金色の海は、現実の海と不思議なほど似ていた。
私はカードを胸ポケットにしまい、石畳を歩き出した。
この町には、まだ私の知らない未来が、静かに隠れている。
それを探す旅が、今始まったばかりだった。